2019年9月18日 夜 明日の勉強
伏見は、山城国の中央部にあり、最も低い所に位置している。
その南部には、昭和16年に干拓を完了した「巨椋池」があった。
「巨椋池」は、太古に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残である。
洪積世第三期末から第四期にかけての激しい地盤の変動(この地殻変動がもっと大規模に起こっていたら本州は東西に別れていたかも?)によって出来た凹地に水がたまったものである。やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、この湖水はしだいに狭められ、さいごに一番低いところが巨椋池として残った。
地形学的に見ても、東西と南北に走る構造線が巨椋池辺りで交わり陥没していて、一大地溝の中心部に当たる訳で、日本はもとより世界の文化が伏見に向かって集まってくると言うことになるのである。
巨椋池の基本的な性格と特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池というところにある。
「巨椋池」の名の由来ですが、「大椋」「巨椋」と称する部族がいたからとか、巨椋神社の社号が地名となり、池の名に転用されたとも言われている。
川の流れは山を削り谷を埋め、平野ができ、大地が緑におおわれてくるようになる。
山城三川と言われる桂川・宇治川・木津川は天王山と男山の間から大阪へ流れ出るが、あまりにも狭いため3本の川の水を裁ききれず、伏見辺りに漂うことになる。
桂川は盆地の北に荒い砂礫を堆積し、今の京都市内の扇状地を形成した。
木津川は盆地の南に大量の微細な沙泥により、南山城平野を形成した。
さてどん尻に控える宇治川は、さぞやと思うのだが水量に比べて作り出す平野は微々たるものであった。
それは琵琶湖が多くの源流を集めてから宇治川に出すと言う、緩衝の役目をしているからである。
その結果、伏見は、京都と南山城にはさまれて、京都盆地では最も低い土地となり、また洪水時には他の2河川からの逆流により大量の水が停滞し、ミニ琵琶湖の如く遊水池の役目をするようになった。これが巨椋池の原型である。
古墳時代に入っても、山城盆地は中央部が広大なる湖沼であり、その周辺部は葭葦繁茂した大湿沢地であったろう。諸河川は洪水ごとに荒川となり、人々が生活する場所ではなかった。
しかし、その後、応神天皇の時代に多くの朝鮮からの渡来人があり、その人達は高度な土木技術をもって山城盆地の開発に尽くした。さらに応神王朝は、淀川を南下し、次の王朝が河内平野の開拓に乗り出すことになる。
奈良朝の頃になると山城盆地内部は漸次干拓せられ、周辺の丘陵地より中央へ移動し農耕時代へと進展してきた。平安遷都により政治の中心が大和より山城に移動したことにより、開発が急速に行われた。
今まで荒れるに任せていた山城三川に堤防を築き河道を修め、道路を造り、橋を架け、港を設置した。
その後、巨椋池は豊臣秀吉の大規模な土木工事で大きく姿を変えられるまで、この状態を続ける。
この時期、巨椋池沿岸の開拓に手がつけられなかったのは、巨椋池湖岸が洪水氾濫地帯であるのと、戦乱が絶え間なかった為であろう。
15~16世紀にかけては、中央権力による統一が失われ、各地に土豪など小地域集団が城を築き、戦乱は続いた。 これもやがて、足利義昭が織田信長に槇島城で滅ぶに至り、新しい時代へと転換することとなった。
付け焼刃もいいところだけれど、実は気になっていたことで、なんかわかり始めてきた。
この調子でやっていこう。
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