2019年9月21日 昼 指月城

京都新聞朝刊記事から。
秀吉が築城し、すぐに地震で倒壊してしまった、巨椋池に面して建てられた指月城の発掘調査の記事が出ていた。姿を見ることはできない今だが、戦国時代から江戸時代になろうというこの時期、東西南北に繋がるこの巨椋池に建てられた城の役割は大きかっただろう。室町という時代に出来上がった日本というものが全国へ広がっていくときの一時のとても重要な役割を果たしたのが伏見である。

【伏見城(指月城)】

伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった

伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。

指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない(正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする(正伝寺掲出新聞記事))。 焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされたこのとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。

豊臣秀吉隠居屋敷

伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が1591年(天正19年)に関白の位と京都における政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は文禄元年(1592年)8月11日に秀吉が平安時代より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月17日に場所を決定し、20日には着工が決められた。次いで8月24日に区画割りが開始され、9月3日には建設が始まるなど、工事は急いで進められた。また、同年12月に秀吉が文禄の役で名護屋城在陣中に利休好みの趣向で造らせるよう指示を出している。この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見地区に遺る

「伏見城の築城は、はじめから秀吉が豪壮華麗な城として築こうとしていたと考えるのは早計である。当初の計画では、あくまでも隠居として、屋敷構にするつもりだったと思われている」とあるように、当初は城というより邸宅としての性格が強かったと考えられている。隠居屋敷は1593年(文禄2年)9月には伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われる。

指月伏見城時代

1593年(文禄2年)に入り明との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、同年8月3日に拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城を与えると想定したことで、隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった。文禄3年(1594年)10月頃より宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築きその上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺える。『戦国の堅城』によると「交通の要衝を管制する政治・軍事施設として築城された。本拠である大坂と朝廷に影響力を行使する聚楽第(甥で関白の秀次が所在)の間に位置する城として、二元統制を行う秀吉に大変好都合な場所である」としており、隠居屋敷は大坂城に付随する隠居用の屋敷から秀吉の本城へと意図を変えたと考えられる。

築城は1594年(文禄3年)から本格的に始まり、普請奉行に佐久間政実が任命され、石材は讃岐国小豆島から、木材は土佐国、出羽国からも調達され、同年4月には淀古城から天守、櫓が移建された。同年10月には殿舎が完成し、翌1595年(文禄4年)に秀次事件が起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城された

また、1594年(文禄3年)末より城下町の整備も行われた。「今日惣之屋敷割、浅弾、民法、増右、長大、山橘、我等躰に仰付けられ候」(『駒井日記 文禄二年閏九月二十六日条』)とあり、浅野長政、前田玄以、増田長盛、山中長俊の家臣団屋敷、大名屋敷があった。

翌文禄5年(1596年)閏7月12日深夜から13日にかけて地震が起こった。このころ近畿地方は大小の地震が頻発しており、豊臣秀吉も「なまつ大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層が倒壊する大きな損害を受けた。『慶長記』によると明使節は閏7月18日、つまり慶長伏見地震から6日後に馬揃えを行う予定だったが中止となった。この時豊臣秀吉は伏見城におり、『当代記』によると女﨟73名、中居500名が死亡したが豊臣秀吉は無事で、建物としては台所施設が健在だったらしくそこで一晩をすごした。夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、豊臣秀吉もそこで避難生活を送っている。この地が木幡山伏見城となる。なおこの災害を契機としてこの年10月27日には「慶長」に改元された。 

木幡山伏見城時代

伏見城は大きな地震に見舞われたが火災は起きなかったようで、櫓や殿舎の木材などが再利用可能で、「十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付けられ、奉行衆罷り超す」(『当代記』)とあり地震が起きた2日後、同年閏7月15日には木幡山伏見城の作事が着手されている。本丸が完成したのは同年10月10日であった。『城と秀吉』によると、「こうしたスピードは、建設資材のかなりの部分が再利用されたからこそ可能だったものと思われる」とし再利用による築城の速さを指摘している。ただ作事に先立ち大規模な普請(土木工事)が必要だから、この早さにはそれ以前に木幡山移転計画があり、普請がすでに始まっていて作事も着手されていたとの推測も可能で、実際、文禄3年1月の日付を持つ木幡山城の縄張り図も残る。慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が、更に同年10月には茶亭が完成した。築城が終わった伏見城は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在した。『城と秀吉』では「名護屋城の縄張りに類似しており、これが秀吉好みの曲輪配置だったのではなかろうか」としており、伏見城と名護屋城の類似性について指摘している。この時期伏見城の築城と並行して、名護屋城の築城、方広寺の大仏殿建設、大坂城の三の丸と惣構え、そして聚楽第の破却等が行われていた。この事に対して『秀吉の城』によると「土木工事に費やした労力と財力は想像をはるかに超える莫大なものであったろう」とし、この時に豊臣秀吉が費やした普請について評価している。

慶長2年(1597年)5月に天守閣が建設された時に豊臣秀吉が移ってくる。「五日大雨、伏見御城殿守ノ丸へ昨日御移徒」(『義演准后日記』)と登城の様子が伺える。豊臣秀吉は大坂城と伏見城を行き来していたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かった。豊臣秀頼と五大老に後事を託し、翌慶長3年(1598年)8月18日伏見城で没した。在城期間は4年であった。

徳川家康時代

豊臣秀吉の遺言より豊臣秀頼は翌慶長4年(1599年)正月に大坂城へ移り、五大老の一人である前田利家が同年3月3日に病死、徳川家康は石田三成を同年3月10日に佐和山城へ追放すると、同年3月13日に留守居役として入城する。その徳川家康も同年9月には大坂城に移った。この時の様子を、「諸大名悉く大坂へ家居以下引越され候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候」(『島津義弘書状』) と島津義弘は伝えている。徳川家康が大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが大坂に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく様子が記されている。

徳川家康は翌慶長5年(1600年)6月、会津征伐に向かった。この間に、小早川秀秋、島津義弘連合軍は鳥居元忠が城代となっている伏見城を4万の兵で攻城、同年8月1日炎上、落城した。

このとき、石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったと書状に記していることなどから、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したと考えられる。

なお、『城と秀吉』では、京都市内の複数の寺に、落城の際に自刃した徳川家家臣の血がついた床板を天井に転用したと伝わる「血天井」が存在することを根拠に、全建物が焼失したわけではなかったとしているが、これらの天井が伏見城の床板であった証拠や血痕とされるシミが血によるものである裏付けなどについては示されていない。


【淀城】

淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であったまた、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった

淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道淀駅の南西に位置する。

安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。

こちらは、鶴松死後に拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村重茲の連座とともに廃城とされた

江戸時代に、木幡山にあった徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして江戸幕府が松平定綱に命じて新たに築かせた。以降は、山城国唯一の大名家の居城として明治に至った。

江戸時代中期の淀城縄張図



【丹波橋】

京都市伏見区の市街地を流れる濠川(かつての伏見城外堀)に架かる橋

丹波守の屋敷があったことから名づけられたとされる

橋の上の通りは丹波橋通りという。東へ500mほどのところに京阪本線の踏切があり、そのすぐ東で近鉄線の掘割を越える。これらの線路のすぐ南側にあるのが、以下の丹波橋駅である。



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