2019年9月21日 夕方 巨椋池

巨椋池の変遷というものが大事そうだと前から気が付いていたが、ようやく着手しはじめたので記事にしておく。

巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。

豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。


伏見は、山城国の中央部にあり、最も低い所に位置している。

その南部には、昭和16年に干拓を完了した「巨椋池」がある。

「巨椋池」は、太古に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残である。

洪積世第三期末から第四期にかけての激しい地盤の変動(この地殻変動がもっと大規模に起こっていたら本州は東西に別れていたかも?)によって出来た凹地に水がたまったものである。

やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、この湖水はしだいに狭められ、さいごに一番低いところが巨椋池として残った。

地形学的に見ても、東西と南北に走る構造線が巨椋池辺りで交わり陥没していて、一大地溝の中心部に当たる訳で、日本はもとより世界の文化が伏見に向かって集まってくると言うことになるのである。

巨椋池の基本的な性格と特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池というところにある。

「巨椋池」の名の由来ですが、「大椋」「巨椋」と称する部族がいたからとか、巨椋神社の社号が地名となり、池の名に転用されたとも言われている。

川の流れは山を削り谷を埋め、平野ができ、大地が緑におおわれてくるようになる。

山城三川と言われる桂川・宇治川・木津川は天王山と男山の間から大阪へ流れ出るが、あまりにも狭いため3本の川の水を裁ききれず、伏見辺りに漂うことになる。

桂川は盆地の北に荒い砂礫を堆積し、今の京都市内の扇状地を形成した。

木津川は盆地の南に大量の微細な沙泥により、南山城平野を形成した。

さてどん尻に控える宇治川は、さぞやと思うのだが水量に比べて作り出す平野は微々たるものであった。

それは琵琶湖が多くの源流を集めてから宇治川に出すと言う、緩衝の役目をしているからである。

その結果、伏見は、京都と南山城にはさまれて、京都盆地では最も低い土地となり、また洪水時には他の2河川からの逆流により大量の水が停滞し、ミニ琵琶湖の如く遊水池の役目をするようになった。これが巨椋池の原型である。



古墳時代に入っても、山城盆地は中央部が広大なる湖沼であり、その周辺部は葭葦繁茂した大湿沢地であったろう。諸河川は洪水ごとに荒川となり、人々が生活する場所ではなかった。

しかし、その後、応神天皇の時代に多くの朝鮮からの渡来人があり、その人達は高度な土木技術をもって山城盆地の開発に尽くした。さらに応神王朝は、淀川を南下し、次の王朝が河内平野の開拓に乗り出すことになる。

奈良朝の頃になると山城盆地内部は漸次干拓せられ、周辺の丘陵地より中央へ移動し農耕時代へと進展してきた。平安遷都により政治の中心が大和より山城に移動したことにより、開発が急速に行われた。

今まで荒れるに任せていた山城三川に堤防を築き河道を修め、道路を造り、橋を架け、港を設置した。

その後、巨椋池は豊臣秀吉の大規模な土木工事で大きく姿を変えられるまで、この状態を続ける。

この時期、巨椋池沿岸の開拓に手がつけられなかったのは、巨椋池湖岸が洪水氾濫地帯であるのと、戦乱が絶え間なかった為であろう。


古代から秀吉の伏見築城期まで

宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。

平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。

巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来し、これらを一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には橘俊綱によって伏見山荘が営まれた。




15~16世紀にかけては、中央権力による統一が失われ、各地に土豪など小地域集団が城を築き、戦乱は続いた。 これもやがて、足利義昭が織田信長に槇島城で滅ぶに至り、新しい時代へと転換することとなった。


秀吉の伏見築城期から明治まで

天下統一を果たした豊臣秀吉は、晩年伏見城を築城し伏見に居を移した。 それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。代表的なものは以下の3件である。

槇島堤の造築

宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離、新たに出来た宇治川の流路は伏見城下に導かれ城の外濠の役割を果たすとともに、水位を上げたことにより城下に港の設置を可能にした。これによって、秀吉が設けた二つの城、大坂城と伏見城を水運で結ぶこととなり、政治都市伏見の繁栄を招いた。築造には前田利家が当たったと伝え、当時は左岸側のみが築造されたと考えられている。このことにより右岸側には洪水の危険をもたらすこととなった(実際、のちに木幡池など多くの池沼が右岸側に生まれた)。槇島堤は宇治堤とも呼ばれた。近年宇治市により宇治橋下流右岸で桃山期の堤の跡が発掘された。市では国の補助も受けて「太閤堤跡」として付近一帯を整備している。

宇治川上流からの水の供給を断たれた巨椋池はかろうじて下流部で狭い口により宇治川と結ばれたが、宇治川とそれに繋がる鴨川が運ぶ砂によりその口も塞がれあたかも出口を持たない沼のようになった。明治にはマラリヤ蚊の発生場所となり、結局干拓されることになる。

淀堤の造築

伏見から納所(現・京都市伏見区)に向けて宇治川の右岸に堤防を築き、宇治川の流路を定めた。これによって、横大路沼(よこおおじぬま、現在の伏見区横大路の京都市南清掃工場を中心とする一帯に位置した)が宇治川・巨椋池と分離された。堤上は伏見と淀城(江戸期)とを結ぶ道にもなり、江戸時代には京都を通らずに大津と大坂を結ぶ東海道五十七次の一部となった。淀堤は文禄堤とも呼ばれた。淀堤の脇には唐人雁木と呼ばれる桟橋も作られ、朝鮮通信使が利用した。

小倉堤の造築と豊後橋の架橋

巨椋池の中を縦断する小倉堤を造り、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現在の観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道を新たに造った。小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも呼ばれた。豊後橋は宇治川上流にあった宇治橋を曳いて架けたため、宇治川右岸を通り宇治町を貫いていたそれまでの大和街道は断たれることになり、京都と奈良を結ぶ人の流れはおのずと伏見城下を通ることになった。

この3つの堤のほか、大池堤、中池堤がこの時期に築かれ、巨椋池は、大池(おおいけ)、二の丸池(にのまるいけ)、大内池(おおうちいけ)、中内池(なかうちいけ)に分割された。そのため、江戸時代には一般に大池と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。



明治から干拓まで

1868年(明治元年)に木津川の堤防が決壊したことで、京都府は淀藩との共同事業によって木津川の宇治川との合流点を下流側に付け替えた。これは木津川から巨椋池に向けての洪水時の逆流を少なくすることになった。

しかし、それからも洪水の被害がたびたび起こったことから、淀川改良工事の一環として宇治川の付け替えが行われ、1910年(明治43年)に完成した。この工事によって巨椋池(大池)は、淀・一口(いもあらい)間の水路で宇治川とつながるのみとなった。このため、周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになり、水質悪化により漁獲量が減少したり、マラリア蚊が発生したりする問題が生じた。そして春から夏にかけて蚊が大量発生し、付近住民は蚊燻をたかなければ夕食の箸を取ることさえできなかった。

このような状況の中での地元の働きかけもあり、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになった。



秀吉時代の巨椋池と堤

淀川流域は古来、日本の政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故、仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり河川整備が繰り返されたが、洪水も度々起きた。平安時代末期の白河法皇は、意のままにならぬ「天下三不如意」として比叡山延暦寺の僧兵、双六博打の賽の目と並んで、淀川上流である鴨川の治水を挙げた

戦国時代に全国を統一した豊臣秀吉が晩年、伏見に居を移すに当たり、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを巨椋池に直接流れ込む形から、現在のような伏見への流れに変えたことである。このことにより宇治川は桃山丘陵に築かれた伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き、流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削。京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大坂においては道頓堀が開削され、大坂夏の陣で荒廃した市中の再建が進められる中で、水運と橋梁の整備も進んだ。大坂は江戸の「八百八町」に対し「八百八橋」と謳われた。更に農業技術の進歩と江戸幕府による新田開発奨励の中で、宇治にある巨椋池の干拓も始まった。

経済が活発になると、薪炭の採取や新田開発が進み流域の伐採が進んだ。森林の喪失は、山間部からの土砂流入を招き、氾濫などの原因となる河床の上昇が進んだ。このため幕府は1660年に山城国、大和国、伊賀国で樹木の根株の採掘を禁ずる令を出した。加えて1666年には、全国版というべき諸国山川掟を発している。それでも土砂流入は収まらず、1683年には稲葉正休による現地視察が、稲葉が失脚した翌1684年には河村瑞賢による河川改修工事が行われた。 また、1807年(文化4年)5月には大雨により琵琶湖の水が溢れ、京都・大坂に洪水をもたらしたと、大坂の画家・暁鐘成は『雲錦随筆』に記している。 



京都高低差崖会さんの巨椋池地図





【中書島】

文禄年間、中務少輔に任官していた脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから、「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった。伏見には他にも、かつての大名屋敷にちなむ地名が多い。 

桃山時代まで伏見港一帯は湿地であった豊臣秀吉が伏見城を政庁としたことによって、武家屋敷が立ち並ぶようになったが、江戸幕府は伏見城を廃城としたため江戸時代前期に荒廃した一方で高瀬川が開削され京都と大坂が結ばれると、その河口としてふたたび水運における重要性が増したその後、伏見城下にあった遊廓が移転され、繁栄するようになる

酒の名所であるために遊びに来る人が多く、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に花街でもあり、祇園をしのぐほどの名妓を輩出してきた


明治末期には京阪電車が開通し、ますます栄えるようになった。

昭和初期には深草に司令部を置く第16師団の将校、兵士にも利用されていたが、1958年(昭和33年)3月15日、売春防止法によって遊廓としての役割を閉じ、花街のみとなった。当初、転業をめぐってお茶屋派と学生相手の下宿派に分かれ対立してきたが沈静化し、その後、徐々に衰退してくるようになり、1970年(昭和45年)に花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は普通の住宅地であり、わずかながら花街、遊廓時代の建物が残されている。

この地で生まれた西口克己の小説「廓」の舞台になったことでも知られる。



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