2019年9月25日 夕方 東京極大路(寺町通)
【東京極大路】
別称 京極大路(きょうごくおおじ)・東極大路(とうごくおおじ/ひがしのきわのおおじ)
平安京の東端に位置する大路。
幅員約30mの立派な大路で、平安時代には染殿(そめどの/土御門大路との交差点の北西角)・河原院(かわらのいん/六条大路との交差点の北西角)など公家の邸宅が並んでいた。
この大路の東側に沿って、東京極川が一条大路から九条大路まで南流し、二条大路以北を「中川」と称した。
昭和五十三(1978)年度の発掘調査では、勘解由小路との交差点の南東(京外)で中川と考えられる平安時代~鎌倉時代の流路が検出されている。
平安時代中期以降、藤原道長創建の法成寺(ほうじょうじ)など、この大路以東にも邸宅や寺院が建設されるようになり、法成寺の南端と二条大路(京外)を結んだ「東朱雀大路(ひがしすざくおおじ)」という新たな大路が設けられた。
平安時代後期には、東西路が東京極大路を越えて東へ延び、延長した道を「末」の字を付けて表現した。
平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』では、「何れか清水へ参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰四つ棟六波羅堂」と歌われており、この大路の五条大路以北が清水寺への参詣路として活発に使用されていたことがうかがえる。
この大路の六条坊門小路以南は、中世の鴨川の付け替えによって川床となり、消滅した。
応長元(1311)年、浄阿真観(じょうあしんかん)がこの大路の東側、四条大路の北側にあった祇陀林寺(ぎだりんじ)を賜って金蓮寺(こんれんじ)と改め、時宗四条派の道場として「四条道場」と称されて繁栄した。
南北朝時代には、祇園会(祇園祭)で山鉾巡行が行われるようになった。
旧暦の六月七日(西暦の7月17日)の「先祭(さきまつり)」と旧暦の六月十四日(西暦の7月24日)の「後祭(あとまつり)」の2回に分けて山鉾巡行が行なわれ、先祭では四条大路→東京極大路→五条大路が、後祭では三条大路→東京極大路→四条大路が、それぞれ山鉾の巡行路となった。
金蓮寺の北隣には室町時代の守護大名であった京極家の邸宅があり、応永六(1399)年以降応仁の乱前まで、室町幕府の将軍や室町殿(将軍職を退いた前将軍)がこの邸宅や邸宅の近くに設けられた桟敷で山鉾巡行を見物した記録が散見される。
室町時代にはこの大路沿いに酒屋が点在し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から五条大路にかけて16軒の酒屋があったようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路を荒廃させ、かつての道筋には中川が南流し、金蓮寺の存在が大路をわずかに示すに過ぎなかった。
応仁の乱によって祇園会(祇園祭)も途絶えたが、明応九(1500)年に再興され、この頃には山鉾巡行路であったこの大路の三条大路~五条大路は道路として機能していたと考えられる。戦国時代の京都の景観を描いたとされる『歴博甲本洛中洛外図屏風』『上杉本洛中洛外図屏風』には、東京極大路を進む山鉾巡行の様子が描かれている。
『歴博甲本洛中洛外図屏風』ではこの大路沿いに金蓮寺以外の目立った建物はみえず、『上杉本洛中洛外図屏風』でもこの大路に面して農地が描かれていることから、下京の市街の外に位置していたことがうかがえる。
天文十七(1548)年には、足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)が四条道場金蓮寺で山鉾巡行を見物したとの記録が残っている。
天正十八(1590)年、豊臣秀吉が洛中に散在していた寺院をこの通り沿いに集め、「寺町通」と名付けた。
この時、三条通以北では、通りの位置がそれまでの東京極大路より東に移されたと考えられる。三条通以南が東京極大路の位置をほぼ踏襲しているのは、祇園会(祇園祭)の山鉾巡行路となっていたことと関係しているのだろうか。
平成二十七(2015)年度の東京極大路跡の発掘調査では、大炊御門大路との交差点を上がった地点で、平安時代前期~室町時代の東京極大路路面が検出された。平安京造営当初は、『延喜式』規定どおりの路面幅を確保しようとしたとみられるが、平安時代中期前半には路面幅が約4.5mに縮小されたことが判明した。その後、10世紀後葉頃に大規模造成が行われ、路面が再構築されて路面幅は約8.0mとなったが、平安時代末期には路面幅は約5.5mに再び縮小されたようである。以後、路面幅は踏襲され、室町時代の路面上では集石や土坑の遺構が検出されたものの、上面には礫敷きがなされていることから、豊臣秀吉による都市改造が行われるまでは東京極大路の名残の道路として管理されていたことが明らかになった。
江戸時代には、寺町通沿いに位牌・櫛・書物・数珠・おしろい・文庫・筆屋・扇子・木屋・硯屋などの商家が軒を連ね、角細工、張貫細工、唐革細工など細工師も多かった。
宝永五(1708)年に発生した宝永の大火後には、この通り沿いに集められた寺院の一部が再び鴨川の東側へ移転した。
幕末、三条通~四条通付近は元治元(1864)年に起こった禁門の変の兵火で荒廃した。
明治に入ると、この通り沿いに文明開化のシンボルの1つである牛鍋屋が生まれ、西洋菓子屋や写真館も出現した。
一筋東の新京極通の開発後は、三条通~四条通の様子が一変し、様々な見世物小屋が生まれて繁華街の一翼を担うようになった。
昭和三(1928)年、金蓮寺は北区(当時は上京区)鷹峯に移転した。
祇園祭の山鉾巡行路は、長らく大きな変更がなく、昭和三十(1955)年までの巡行路は前祭が四条通→寺町通→松原通、後祭が三条通→寺町通→四条通であり、前祭・後祭ともに寺町通が巡行路となっていた。
しかし、前祭の巡行路は昭和三十一(1956)年に四条通→寺町通→御池通に、昭和三十六(1961)年には寺町通の道幅の狭さを理由に四条通→河原町通→御池通に変更され、後祭は昭和四十一(1966)年に前祭に統合され[13]、寺町通は完全に巡行路から外れてしまった。
現在の寺町通は、御池通~四条通が繁華街の一角となっており、アーケードが続く。
三条通~四条通は、寺町京極商店街であり、かつての呼び名であった「京極」という名前が付けられている。
四条通~高辻通は小規模ながら電気店街となっている。
清和院御門以北では、梨木町通の方が平安京の東京極大路に近い。
「梨木町通」の名は、昔、通り沿いの梨木町内に梨の大木があったことによるという。
梶井基次郎の小説『檸檬』は、寺町通を舞台に描かれており、主人公が檸檬を買った店「八百卯」が二条通との交差点の南東角にあったが、平成十七(2005)年に閉店した。
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