2019年10月18日 夜 南禅寺界わい邸宅群
【南禅寺界わい邸宅群】
南禅寺界隈別荘は明治新政府が召し上げた臨済宗南禅寺の敷地を開発した後に建つ、15邸の広大な別荘。
碧雲荘(へきうんそう)
何有荘(かいうそう)(旧稲畑勝太郎邸)
対龍山荘(對龍山荘)(たいりゅうさんそう)
流響院(りゅうきょういん)(旧織寶苑(しょくほうえん))
清流亭(旧塚本與三次邸)
有芳園(旧住友友純別邸)
真々庵(旧染谷寛治別邸)
無鄰菴(むりんあん)(旧山縣有朋別邸)
清風荘(旧西園寺公望邸)
智水庵(旧横山隆興別邸)
怡園(いえん)(旧細川家別邸)
旧上田秋成邸(現:料理旅館八千代)
旧藤田小太郎邸(洛翠)
旧寺村助右衛門邸(現:料理旅館菊水)
【無鄰菴】
無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭。
「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。
最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がないことによる。 あるいは『論語』「徳不孤必有鄰」 "徳は孤ならず、必ず隣あり" にあるかもしれない。
第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条に購入した別邸、
そして
第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。本項では主にこの第三の無鄰菴について説明する。
第三無鄰菴
山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。南禅寺界隈別荘の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3100m2。現在は1941年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年(昭和26年)6月9日、国の名勝に指定された。
数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は明治25年ごろから準備を始め、1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成。洋館の設計は新家孝正で明治31年に竣工。
所在地:京都市左京区南禅寺草川町31
琵琶湖疏水と東山の別荘地
山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。
この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工する。京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となったのである。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった。
無鄰庵会議
会議の行われた部屋、洋館2階
この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎である。
当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめていた。 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのである。
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